泗水(しすい)、その波光(はこう)、傾国(けいこく)ならざる刻(とき)なし

斉魯(せいろ)の大地にて、土の中からは古代文明の薫りが息づき、山嶺の頂からは悠久の年月の中の青や黄の移ろいを望み、さらには道や記憶に忘れ去られた城郭さえも、みな中国数千年の風雨と変遷の縮図である。

私はかつて、泰山(たいざん)の上で陽と陰が昏暁を分かつ情景を夢想したことがある。その雄大壮麗さの中に、明らかなる乾坤(けんこん)は自然の理を秘めている。これこそ一つの境地である。私がそんな悠遠なるイメージに夢中になっていた時、泗水のリズムが時空を破って訪れた。それは目から鱗が落ちるような感覚であり、瞬時にして自分はもう一つの境地に至ったかのように思えた。

この境地において、私は歴史上の人物たちが大地を歩いた足跡をはっきりと感じ取り、文明の華が次々と開いた脈絡に触れることもできる。現代のようにどの街も似たり寄ったりという時代にあって、まだ独自の風韻と特色を備え、一目でそれと見分けられる場所がどこにあろうか。

泗水はその一つである。

泰沂(たいき)山脈の南麓に位置する泗水は、四季が穏やかで、機敏かつ繊細で上品な、小家の碧玉(へきぎょく)のようであり、人に安寧と心地よさを与える。この古き卞国(べんこく)の地は、まるで時間さえも分断することのできないような気風に染まっているように思える。

無数の文化の欠片が、絶えず私の目の前で煌めく。その古典的な趣きは人を魅了してやまない。私は数千年の昔の足跡を極め尽くすことはできない。しかし、ここが華夏(かか)古代文明の発祥地の一つであることは、動かしがたい事実であろう。儒教の五聖はじめ、墨子(ぼくし)、仲子(ちゅうし)、孔仮(こうか)などの先賢たちは、みな泗水と深い縁を結んでいる。それゆえ、私はこの青々と茂る土地には、強力な磁場があり、無数の人々の足と視線を引きつけていると感じるのである。

話は長くなるが、いつまで遡れるかは誰にもわからない。泗水の地域に文字による記録が残る歴史は、遠い古代までたどることができる。『左伝』に、「魯(ろ)に大庭氏の庫あり、泗に居龍の宮あり」とある。これが「泗水」という名が初めて神話の形で書簡に載せられた時であり、それ以降、「泗水」は頻繁に言及されるようになりながらも、常にこの枠組みの中で豊かにされ、あるいは拡張されてきた。

古代の水利技術者の目には、泗水はただの泉が育て上げた川に過ぎない。

仲由(ちゅうゆう)の心の中では、泗水は故郷を生き生きと繁栄させ、枝葉を広げさせる生命の脈であり、どこにいようともその歓声が聞こえてくるはずである。

司馬遷(しばせん)の筆の下では、泗水は決して止むことのない光陰の川であり、筆が触れるところどこへでも、その流れは及ぶ。

文人や詩人たちの目には、泗水は天下を巡る龍であり、どれほど長く斉魯の地をうろつこうともその本質は変わらない。

現代の学者たちは、もっとも範囲を限定した概念を示している。すなわち、泗水を人文地理の一単位として捉えた場合、もっとも代表的な区域は、東は亀山・蒙山を境とし、西は梁公林を境とし、南は尼山を境とし、北は梁父山・徂徠山を境とし、東北は宮山を境とする、というものである。

泗水――古くさく、しかし決して遠ざかったことのない名前よ。