盛夏の候、泗水県城を出発し、河岸に沿ってさかのぼること、泗河の源流・泉林に至れば、耳元に次第に澄んだ泉の音が聞こえてくる。目に入るのは「天下奇観泉林」と刻まれた牌楼。右側には斑れた石碑が立ち、「文武官員人等、此ニ至リテ下馬スベシ」とある。林間の御道をさらに進むと、群泉に囲まれた陪尾山が見え、山腹西側には観泉亭がそびえ立ち、その外には「子在川上處」の石刻が据えられている。
陥没、圧縮、隆起——数万年前の造山運動が、雄大に連なる泰沂山脈を生み出した。その南麓の余脈からは、南北二筋の連なる丘陵が伸び、その間に盆地上が広がり、これが泗水の原初の姿を描き出したのである。
泉水もまた、ひそかに湧き出でた。南北二つの泉脈は、いずれも泰山の根を同じくする。山陰は済南、山陽は泉林。大自然の絶妙な技により、泉林泉群と済南泉群は互いに照り映え合う。陪尾山のふもとには、泉が林のように多い。伝えられるところによれば、陪尾の麓には泉が林のごとく分布し、名泉七十二、大泉数十、小泉は無数にあり、珠が連なり星が列なるごとく、万の珠が跳ね上がるという。
ある伝説がある。玉帝が山東を三年もの間旱魃に苦しめた折、孔子は弟子たちを率いて雨乞いをした。道中、傷ついた白蛇に出会い、連れ帰って養った。数か月後、白蛇が癒えたので、孔子は川に放してやると、たちまち水は逆巻き、白蛇は一瞬にして白龍と化した。白龍は恩義に感じ、勝手に雨を降らせたが、玉帝は怒って山に変えてしまった。民は白龍を哀れみ、陪尾山と名付けた。白龍は死してもなお、この地の旱魃を忘れず、孔子の恩徳を偲び、山の岩間から泉を吐き出した。それが今の泉林を成したという。
伝説はさておき、泉水はまさに天地の和合の産物である。天からの水を受け、大地に育まれ、岩間から湧き出るものもあれば、砂の中にひそかに現れるものもある。吹き上げる様は星のごとく輝く。手を触れれば、冬は温かく、夏は冷涼。口にすれば、そのまま飲むこともでき、沸かせば茶を淹れるにも適する。その姿や音の違いにより、紅石・珍珠・趵突・黒虎の名が与えられた。
紅石泉は、水底から赤い砂を噴き出し、あたかも血が石に塗られたよう。珍珠泉は、泉底から気泡が浮かび上がり、雪の霰が水面にまかれたよう。黒虎泉は、虎の口のごとく大きく、荒れ狂う虎のごとく轟く。趵突泉は、勢い百の渓谷に勝り、人が撃ち合うごとく吹き上がる。
明代の治河御史・章拯は詩に賛えて曰く、「品推黒虎勝、合作玉虹流、洙泗多名迹、東帰記勝游」(品は黒虎を勝れたりと推し、合作して玉虹の流れとなす、洙泗に名迹多し、東に帰して勝游を記す)。星のごとく散らばる泉が集まって泗河となり、東から西へ流れ、まず微山湖に入り、その後北から南へ転じ、魯南・蘇北の諸水を合わせて淮河を経て東海に注ぐ。流れる先々には、悠久の歴史、深い文化、興味深い伝説が息づき、絶えることなく伝えられ、生き続けている。
「勝日尋芳泗水浜 無辺光景一時新 等閑識得東風面 万紫千紅總是春」(春の日、泗水のほとりに芳を尋ねれば、限りない光景が一時に新たなり。何気なく東風の面影を知れば、万紫千紅、みなこれ春なり)。多くの人が泗水を知るのは、まさにこの詩からである。泗水とは、泗河の古称であり、孔子が講壇を設けた地でもある。この詩は南宋・隆興年間に作られたが、当時泗水のほとりは金の領土となっており、詩人・朱熹は春を訪ねる志はあれど、宋金の戦乱のために実現できず、ついに憾みを残したのである。








